横瀬浦ミニクルーズ-その4-
港の南側の小高い丘の上は横瀬浦公園となっていて資料館などが建っている。
ここにはかつて教会が建てられていた。
天主堂の跡地にはそれに似せた建物が建っていた。
展望台らしいのだが、下までいっただけで登っていないし、登り口も探さなかったので、実際に登れるかどうかは不明(^_^;
-その3-でも書いたが、ここ、横瀬浦は戦国武将大村純忠が洗礼を受けて、日本で最初のキリシタン大名となった土地だ。
園内には純忠の洗礼の様子を描いた「洗礼(Baptismo)」という、ポルトガルの現代作家ベラ・シルヴァによる彩色タイル画(アズレージョ)が展示されている。
また、これと並んで司馬遼太郎の「街道をゆく11『肥前の諸街道』」の一文を記した碑も建っていた。
碑文の内容は以下のとおり。
たちまち横瀬は開港場として栄える一方、大きな会堂が建ち、信者がふえ、その信仰の火は、横瀬と水路をむすぶ各地方にひろまった。純忠は、教会をまもるために重臣を横瀬に常駐させる一方、みずからも洗礼し、ドン・バルトロメオという霊名をもらい、大名として洗礼者になった。
しかし、横瀬浦の繁栄もたった1年で終焉を迎える。
純忠の洗礼や政治に快く思わぬ老臣たちが、武雄の後藤貴明と内通し、また横瀬浦と大村を往来する際必ず通らなければならない針尾島の領主・針尾伊賀守とも結託して、1563(永禄6)年7月27日にクーデターを実行。
このクーデ ターで純忠が暗殺されたという噂が流れたため、横瀬浦にいた豊後商人らが暴徒化し、ポルトガル人を殺し町に放火し横瀬浦は壊滅した。
その後、ポルトガルは長崎湾外の福田や島原半島南端の口之津などに寄港したが、最終的には大村氏の領地でだった現在の長崎港を拠点とするようになった。
ながさき旅ネットでは歴史に「もし」があれば、ここが長崎というモデルコースを紹介している。
ちなみに、長崎にある「思案橋」のルーツは、ここ横瀬浦らしい。
来年は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産として登録される(ことになっている)ようだが、ここ横瀬浦も具体的な遺跡などが残っていれば、りっぱな構成資産となっただろう!
何故「明治日本の産業革命遺産」なんだか理解できない「松下村塾」や「萩城下町」なんかよりも、よっぽど歴史資産価値のある横瀬浦なんじゃないかなぁ~
ここにはかつて教会が建てられていた。
天主堂の跡地にはそれに似せた建物が建っていた。
展望台らしいのだが、下までいっただけで登っていないし、登り口も探さなかったので、実際に登れるかどうかは不明(^_^;
-その3-でも書いたが、ここ、横瀬浦は戦国武将大村純忠が洗礼を受けて、日本で最初のキリシタン大名となった土地だ。
園内には純忠の洗礼の様子を描いた「洗礼(Baptismo)」という、ポルトガルの現代作家ベラ・シルヴァによる彩色タイル画(アズレージョ)が展示されている。
また、これと並んで司馬遼太郎の「街道をゆく11『肥前の諸街道』」の一文を記した碑も建っていた。
碑文の内容は以下のとおり。
たちまち横瀬は開港場として栄える一方、大きな会堂が建ち、信者がふえ、その信仰の火は、横瀬と水路をむすぶ各地方にひろまった。純忠は、教会をまもるために重臣を横瀬に常駐させる一方、みずからも洗礼し、ドン・バルトロメオという霊名をもらい、大名として洗礼者になった。
しかし、横瀬浦の繁栄もたった1年で終焉を迎える。
純忠の洗礼や政治に快く思わぬ老臣たちが、武雄の後藤貴明と内通し、また横瀬浦と大村を往来する際必ず通らなければならない針尾島の領主・針尾伊賀守とも結託して、1563(永禄6)年7月27日にクーデターを実行。
このクーデ ターで純忠が暗殺されたという噂が流れたため、横瀬浦にいた豊後商人らが暴徒化し、ポルトガル人を殺し町に放火し横瀬浦は壊滅した。
その後、ポルトガルは長崎湾外の福田や島原半島南端の口之津などに寄港したが、最終的には大村氏の領地でだった現在の長崎港を拠点とするようになった。
ながさき旅ネットでは歴史に「もし」があれば、ここが長崎というモデルコースを紹介している。
ちなみに、長崎にある「思案橋」のルーツは、ここ横瀬浦らしい。
来年は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産として登録される(ことになっている)ようだが、ここ横瀬浦も具体的な遺跡などが残っていれば、りっぱな構成資産となっただろう!
何故「明治日本の産業革命遺産」なんだか理解できない「松下村塾」や「萩城下町」なんかよりも、よっぽど歴史資産価値のある横瀬浦なんじゃないかなぁ~
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